神社のご案内

丹生川上神社(中社)の由緒のご紹介と、境内のご案内を行っております。
当神社へお越しの際のご参考にしていただければと思います。

丹生川上神社のご由緒について

当神社の御祭神「罔象女神(みづはのめのかみ)」は、水一切を司る神様で水利の神として、又は雨の神として信仰され、五穀の豊穣に特に旱続きには降雨を、長雨の時には止雨を祈るなど、事あるごとに心からなる朝野の信仰を捧げ、水神のご加護を祈ってきました。
今を去る事千三百年余り前、第四十代天武天皇白鳳四年(675年)「人聲の聞こえざる深山吉野の丹生川上に我が宮柱を立てて敬祀らば天下のために甘雨を降らし霖雨(長雨の事)を止めむ」との御神教により創祀せられ、雨師の明神、水神宗社として朝廷の崇敬は殊の外篤く「延喜式」(927年)には名神大社に列せられ、又平安時代中期以降は、祈雨の神として「二十二社」の一つに数えられました。祈雨には黒馬を、止雨には白馬又は赤馬を献じ朝廷の特に崇敬する重要な神社でありました。763年より応仁の乱の頃までは朝廷よりの雨乞い、雨止めの奉幣祈願が九六度されていることが記録にみられることからも当社がいかに重要な神社であったかが伺えます。しかし、都が京都に遷り戦国時代以降はそのような祈願も中断され、丹生川上雨師神社もいつしか蟻通神社と称され、ついには丹生川上神社の所在地さえ不明となってしまいました。明治維新となり、丹生川上神社は何処かという研究調査が行われ、明治四年丹生村(下市町)、続いて明治二十九年川上村の神社が、夫々有力視され官幣大社丹生川上神社下社、上社とされました。蟻通神社こそが丹生川上神社だと大正十一年、当村出身の森口奈良吉翁の精緻な研究調査により丹生川上神社中社として官幣大社に列格され、ここに従来の二社は三社になったが、官幣大社丹生川上神社としては一社であります。そこでこの神社の社務所を当社に移して、下社、上社を統括して祭務を行ってきましたが、戦後神社制度の変遷により今日では三社別々の神社となったが、当社は「丹生川上神社」と登記されています。
本殿は江戸時代文政十二年(1829年)の建築で、東吉野村の文化財に、又瑞垣内にある灯篭は鎌倉時代の弘長四年(1264年)銘で、国の重要文化財に指定されています。

境内のご案内


祭神

本殿の主祭神は、中央に罔象女神(みづはのめのかみ)をお祀りし、相殿として東方に伊邪奈岐命(いざなぎのみこと)、西方に伊邪奈美命(いざなみのみこと)を配祀しております。
東殿の中央にはおおひるめむちのみこと)[天照大神]その東方に譽田別命(ほんだわけのみこと)[応神天皇]、その西方に八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)をお祀りしております。
西殿の中央には開化天皇と上筒男命、その東方に菅原道真と綿津見神、その西方に大国主神と事代主神をお祀りしております。
境内社としては、川向いの本宮山に摂社丹生神社として彌都波能売神(みづはのめのかみ)をお祀りし、蟻通橋北詰には末社東照宮があります。又西殿の西北には末社木霊神社として五十猛命(いたけるのみこと)をお祀りしております。

本殿建物

本殿三社は文政11年(1828年)から約12年に亘って造体したもので、何れも流れ造りの桧皮葺である。中央本殿は方四間、東殿は桁行七間、梁行三間半、西殿は桁行六間、梁行三間半で、何れも柱、桁、梁、斗拱、蟇股等すべて年月にて一部欠落しているが極彩色の名残を留め、特に欄間には花鳥などのすばらしい彫刻があり、往時の壮麗絢爛たる姿を想い起させる

吉野離宮碑

吉野離宮については吉野町宮滝に於いて、先住民族の遺物が発見され、昭和10年12月に史跡として指定されてより宮滝説を信じる人多き中で、日本書紀に明記せされている応神天皇19年の行幸より聖武天皇天平8年の最後の行幸に至るまで、実に448年の長きに及び、柿本人麻呂、山辺赤人、大伴旅人等の歌人、吉田宜等懐風藻中の詩人等の高邁にして純真なる詞華をみるにつけ、此の丹生川上の神域こそ吉野離宮であると疑わず、郷土が生んだ偉大なる森口奈良吉翁は数々の考証を加えて、吉野離宮丹生川上説を唱え、そしてこの丹生川上説に賛意と支持力説をされた人に名著「万葉地理考」を著された元奈良女高師教授から駒澤大学教授に転ぜられた豊田八十代翁、大著「万葉集新考」を著された、元宮中顧 問官井上通泰博士、文芸評論家として著名な保田與重郎等が居られる。

 


井上通泰博士は、昭和4年6月10日親しく丹生川上の吉野離宮跡を視察せられ、丹生川の河鹿の声を聞いて

 離宮の行幸のたびに珍しと蛙の声を聞こしめしけむ

とお歌いになった。

現在神社境内には、昭和41年10月18日に東吉野村郷土史蹟顕彰会にて「吉野離宮址」の顕彰碑が建立され、其の裏面には次の通り記されています。
萬葉の歌に多く詠まれ又しばしば蟻通ひ給ひし吉野離宮は雄略天皇が御獵なされた小牟漏岳の麓秋津野の野辺に宮柱太敷まして建てられてゐた。そこは丹生川上神社の神域地でこの辺りから奥に離宮があったと推定される。
この対岸には大宮人の邸宅があって川を堰止め舟を浮かべ離宮に出仕のため朝な夕な競ふて渡った。今も邸宅の名残である御殿や軒先と云ふ地名が残ってゐる。

昭和41年10月18日 東吉野村郷土史蹟顕彰会


神武天皇聖蹟の碑

神武天皇の御親祭
神武天皇長随彦と戦うに当り、高倉山にて夢訓を得て、椎根津彦等に命じて天香山の土を取ってこらし、丹生川上に於て神祇を敬祭せらしめた。この御親祭こそ戦勝祈願の極めて重大なる祭典であった。

日本書紀 是(ここ)に天皇甚(にへさ)に悦びたまひて、乃ち此の埴(はにわ)を以て、八十平瓮(やそひらさか)、天手抉(おめのたくじり)八十枚(やそき)、厳瓮(いつべ)を造作(つく)りたまひて、而して丹生(にふの)川上に陟(のぼ)りて、用て天神(あまつかみ)地祇(くにつかみ)を祭(いはひまつ)りたまふ。即ち彼の菟()田川(たがわ)の朝原(あさばら)に於て、譬(たと)へば水沫(みなは)の如くに咒著(かしりつ)くる所あり。天皇又因 りて祈(うけ)ひて曰(のたまは)く、吾れ今当(まさ)に八十平瓮を以て水無しにして飴(たがね)を造るべし。飴成らば、則ち吾れ必ず鋒刃(つはもの)の威(いきほい)を假らずして、坐()ながら天下(あめのした)を平()けむ。乃ち飴を造りたまふ。飴即ち自らに成りぬ。又祈ひて曰く、吾れ今当に厳瓮を以て丹生の川に沈めむ。如()し魚大小(おほきなるちひさき)と無く、悉く酔ひて流れむこと、譬へば猶(まきの)葉()の浮くが如くならば、吾れ必ず能く此の国を定めてむ。如し其れ璽(しか)らずば、終(はた)して成る所無けむとのたまひて、乃ち厳瓮を川に沈めたまふ。其の口下に向けり。頃(しばらく)ありて、魚皆浮きで水のまにまに
(あぎとふ)。時に椎根津彦(しいねつひこ)見て奏(まを)す。天皇大に喜びたまひて、乃ち丹生の川上の五百箇(いほつの)真坂樹(まさかき)を抜取(ねこじ)にして、以て諸神(もろかむたち)を祭(いは)ひたまふ。此れより始めて厳瓮の置有り。時に道臣命に勅すらく、今高皇産靈(たかひむすひの)尊(みこと)を以て朕()れ親ら顕(うつし)斎(いはひ)を作()さむ。汝を用て斎(いはひ)主(ぬし)と為て、授くる厳媛(いつひめ)の号()を以てせむ。而して其の置ける埴瓮(はにべ)を名づけて厳瓮と為し、又火の名をば厳(いつの)香来(かく)雷(つち)と為し、水の名をば厳罔(いつの)象女(みつはのめ)と為し(罔象女、此をばミツハノメと云ふ)粮(くらひもの)の名をば厳(いつの)稲()魂女 (かのめ)と為し(稲魂女、此れをばウカノメと云ふ。)薪の名をば厳()山(やま)雷(づち)と為し、草の名をば厳(いつの)野()雷(つち)と為したまふ。

とあり。斯くて天皇は熱烈な祈願を籠められた。神霊の光助にて皇軍の士気大に振興し、先は国見丘にて兄磯城を破り長随彦を平定して橿原の宮で即位をなした。

厳瓮を川に沈めて酔魚の浮流により勝利を知らしめた瑞徴は、明治大帝の叡慮によって即位の大典に採用され大正昭和の御即位に際し紫宸殿南庭の萬歳旙上部に厳瓮と魚の浮出を繍飾してその瑞兆を記念せられた。因みに浮き出た魚は魚偏に占うと書く鮎(あゆ)である。

昭和十六年六月二十五日“皇紀2600年”を奉祝して“神武天皇聖蹟丹生川上顕彰碑”が建立されたのは、丹生川上が実に肇国発祥の地、皇室守護の神霊が鎮ります処からでもあります。

叶えの大杉

樹齢1000年程、樹高51.5m、幹廻り7.1mの杉の古木で大杉の幹に両手を当て、心の願いをこう唱すれば、御神威が授かる処から、日夜大杉の前で祈る老若男女の姿が多くみられる。

相生の杉

樹齢800年程の杉の大木が相い対いするよう真直に聳え立っております。いつしかこの2本の大杉を"相生の杉"と呼称し、夫婦円満、延命長寿の御加護があると信仰されております。

丹生の真名井(清めのお水)

御本殿裏手の乎牟漏岳を分源として罔象女神(水の神)のみずみずしい秘めた力と恩恵(みめぐみ)を受けた御神水が御本殿の地下を脈々と通り、御井戸に滾々と湧き出ております。水の神様のみずみずしい清めのお水、生命のお水を戴いて活力ある日々をお過ごし下さい。

祈雨止雨祈願絵馬

昭和38年10月16日例祭当日、東京電力(株)、関西電力(株)より奉納された欅の一枚板に彫られた白馬、黒馬一対の絵馬が拝殿にかかげられています。

丹生のなで梟

叶え大杉にいつの頃からか住みつき、丹生の杜の夜の番人として境内を守って戴いております。
ふくろうは「不苦労」「福来朗」「幸福ろう」と書き物事を察知し、先を見通し知恵豊かな、しあわせをもたらす霊鳥として親しまれております。
この"なでふくろう"の頭、体、足などをなでて頂きお徳をお受け下さい。
那智黒石にて謹製の「丹生のなでふくろう」守りも
社務所にてお授けしております 

茶室“甘雨”

社務所より渡り廊下で繋がる茶室"甘雨"は昭和44年10月に竣工し、保田与重郎が命名し揮毫した額がかかげられ、前栽には氏が愛した馬酔木が多く植えられ一服のお茶に心やすらぐ空間がる。

爺婆石(じじばばいし)

当神社の西の参道口で爺婆石が出迎えてくれる。鳥居に向かって
正面左側が爺石右側が婆石で夫婦石とも呼ばれている。
かつてこの地方では木材の搬送の主力が筏で享保年間(1724年頃)
より紀州に送り出すのに始まったとされる。
当村より切り出された木材は筏を組みこの社前、爺婆石下の所を
目安として川をせき止めて水を溜める鉄砲ぜきをつくり鉄砲水を
送って筏を流す処から筏乗りは多年の経験を積んで一人前となっ
たが、この筏にて川を下るという事は命がけの仕事であった。
道中の安全を翁(人生の先輩、知恵を持つ賢者)に祈る信仰がいつ
しか生まれ、それが爺婆石の姿となった。
その後、時代の変遷と共に木材の運搬も自動車を主体としたもの
に移り変わり、筏流しも見られなくなったが、道中の安全を願う
心は今も変わらない。更
には当地区は長寿者も多く、延命長寿・夫婦円満を願い、爺婆石
をなでる老若男女の姿が日々見受けられる。


天然記念物 丹生川上神社(中社)のツルマンリョウ自生地

ツルマンリョウってどんな植物?
ツルマンリョウは照葉樹林の林床に生育するヤブコウジ科の小低木です。茎はツル状をしていますが、他の木などに巻きついたり、幹や壁にくっついてよじ登っていくようなことはしません。茎はもたれかかることができれば、上方に伸びますが、なければ1m前後で倒れ、根を出して先端は再び上方に向かって伸びます。葉は常緑で茎には互生をして着き、花は葉柄のつけねに束を作って茎に着きます。


ツルマンリョウが発見されたのはどこ?
中井博士は1911年に台湾で発見した新植物にツルアカミノキと名付けましたが、京都大学の小泉博士が1923年に吉野町(当時は龍門村)河原屋の妹山で発見した本種に、新しい属を設立し、妹山の一角に祀られている名神大社である大名持神社の名に因んで、Anamtiaと命名して発表しました。当時の台湾産のツルアカミノキと、妹山産のツルマンリョウが同一物であることが分かったのは後のことで、いち早く広く知れ渡ったツルマンリョウの名が一般的となり、今日に至っています。その後、ヤブコウジ科植物を研究しているWalker博士によって、Myrsine属に移されましたが、この属は和名のツルマンリョウ属と変わりません。
現在、ツルマンリョウの分布は中国本土・台湾(大武山ほか)・沖縄県(国頭村)・鹿児島県(屋久町)・山口県(宇部市上山中および山口市徳地)・広島県(三原市本郷および広島市)・奈良県(吉野町河原屋・山口・三茶屋・龍門寺跡、東吉野村小および鷲家、宇陀市榛原区自明および内牧)が知られています。

ツルマンリョウの花は?実は?
ツルマンリョウは雌雄異株ですが、雌株も雄株もともに雄蕊、雌蕊があります。ただし、雌株の雌蕊は正常な大きさですが、雄蕊は葯の発達が悪く小さいです。これに反して雄株の雄蕊はよく発達していますが、雌蕊の先(柱頭)は尖頭形で発達が悪い状態です。
雄花も雌花も7月中旬を中心にして開花しますが、咲き終わるとやがて萎んだまま茎につき、年が変わって5月ごろから子房が膨らみ始め、9月に赤熟します。開花してから二年目になって熟すわけです。12月に採取した本種の標本を調べて、一時は植物誌などにツルマンリョウの花期は12月と書かれていたこともありました。

ツルマンリョウを育ててきた森林
ツルマンリョウは照葉樹林(シイやカシ類、ヤブツバキ、常緑のクスノキ科やモチノキ科の樹木などが茂る森林)の林床に生育しますが、スギやヒノキの植林に変えて、下刈りをせずに放置したところでは、ツルマンリョウは生き残ることができる場合があっても、極めて条件が限られるようです。それは強い日射のもとでのツルマンリョウは開花などが制限されるなど生育状況は決して良くありません。また、上層木がスギの場合は、落葉は枝に付いた状態で落ちるので、まともにかぶってしまうと、ツルマンリョウが受けるダメージはきわめて大きいので注意する必要があります。ここ丹生川上神社のツルマンリョウの生育を保護するために、陽あたりの強いところでは、黒い寒冷沙紗を被せて、回復が早く進むように配慮しております。

明治以降の県内ツルマンリョウの保護
奈良県のツルマンリョウ自生地は2箇所を除いて、国や県の天然記念物に指定され、保護されています。丹生川上神社の場合は、「丹生川上神社中社のツルマンリョウ自生地」として昭和32(1957)年5月8日に国の天然記念物の指定を受けています。
また、奈良県ではツルマンリョウを「希少種」(2008大切にしたい奈良県の野生植物、植物・昆虫類編)に指定し、大切に保護しています。なお、近畿地方レッドリストでは「絶滅危惧種B」に指定されています。

文:菅沼孝之(特定非営利活動法人 社叢学会 副理事長 理学博士)


ヤマユリが香る社

ヤマユリの別名はヨシノユリと言い、吉野になじみの深い花です。当神社では、7月中旬〜8月初旬ごろにかけて約1千本のヤマユリが見頃を迎えます。姫神(祭神=罔象女神)が見守るためか、ヤマユリもより一層綺麗に咲くようで、この時期の境内には甘い芳香が一帯に漂っており、ご来社された方々からは、いつしか「ヤマユリの香る社」と呼ばれています。




ツクバネ【衝羽根】ビャクダン科

本社が鎮座する小牟漏岳の主として尾根筋に、ツクバネが生息しています。ツクバネはビャクダン科の半寄生性の落葉低木で、関東以西の本州・四国・九州北部に分布しています。本種は雄雌異株で、5月から6月に小さい花を咲かせますが、雄花は枝先に数個群がってつき、雌花は枝先に1個つきます。花弁は早く落ちますが、花を包んでいた4枚の苞(ほう)が3cmほどに伸びて葉状となって開きます。この実が羽子板の羽根に似るところからツクバネと呼ばれ、本種の名前になりました。若葉も実も食用としますが、衝羽根状の果実は塩漬けとして正月料理の添え物に使います。
衝羽根のような形態を示すために、「ツクバネ」の名前のついた植物に、ツクバネガシ(本社の宮山に生育しています)、ツクバネソウ、ツクバネウツギ(多数の園芸品種があります)、ツクバネアサガオ(ぺチュニア)があります。
文:菅沼孝之(特定非営利活動法人 社叢学会 副理事長 理学博士)